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雑司が谷の大下宇陀児
東京都豊島区雑司が谷は大鳥神社で見かけた大下宇陀児。
このへんに住んでいたのでしょうか?

大下宇陀兒


戦争中は雑司が谷五丁目の会長を務めていたとのこと。
ちなみに昔は音羽も南池袋も「雑司が谷」だったので、いまその「五丁目」というのは有りません。

大下宇陀児はNHKのラジオで1947年〜1960年にやってた「二十の扉」という番組のレギュラー解答者でもありました。
この番組(におけるゲーム)は要は「20Q」「Akinator」です。
アキネイターと大下宇陀児はちょっと関係がある…と考えると奇妙で楽しい。
(追記 2012.05.22)

附・しょぼ伝 大下宇陀児

おおした・うだる。1896〜1966、長野県生まれ。
「宇陀児」の筆名は、奥さんの歌子さんの名をもじったものだと言う。
趣味は鮎釣りと麻雀。

戦時中、池袋駅の西口サイドの丸山町で江戸川乱歩が副町会長を務めていたころ、
東口サイドの雑司が谷五丁目で町会長を務めていたのが大下宇陀児その人である。

昭和20年4月13日の空襲で家は焼け、町も焼けて、
氏の価値観や希望さえ燃え尽きてしまった…ような感じが窺われる。
疎開から戻った江戸川乱歩が大下、水谷準の両氏夫妻を招いて
「やっと自由に書ける時代がやって来た、探偵小説、再建していこう!!」
と宴会を開くも、大下はなんかもう全然やる気なかったという。

悲観しきった氏は知人から青酸カリを入手。自らその命を絶つ…
つもりだったがその粉は実はただの苛性ソーダでした、ジャンジャン、
という笑えない顛末、があったのがその昭和20年の秋。

それでふっ切れたのかどうだか、氏は再び筆を執り、甦る。
しかも(けっこう戦災のひどいほうだった)町内の仕事なども同時にこなすのだ。
物流、経済の状態がカオスだった戦後。
「配給」、「闇市」、そういった話題でコワイお兄さんたちと話がこじれそうになっても、
五分に渡り合うことのできる、なかなかコワモテのオッサンだったと言う
(なんなら仲良くなってあとで一緒に麻雀など楽しんだとか。すげえな阿佐田哲也かよ!)。

その後はNHKのラジオ番組「二十の扉」のレギュラー解答者として
お茶の間でもおなじみに。

ちなみにこの番組「アメリカの人気番組の、日本ナイズド版」である。
そのため大下はGHQ民間情報教育局(CIE)みずから
「知性とセンスがある人物」として面接した結果採用されているという。

昭和41年、心筋梗塞で死んじゃう前の週とかまで
腰まで水に漬かって鮎釣りを楽しんでいた。
享年69。

上記、双葉社『日本推理作家協会受賞作全集D 大下宇陀児「石の下の記録」』収録の、山村正夫氏の解説を参考にしました。

(2012.06.04)

おまけ・雑司が谷の三角寛

三角寛

「小便だらけの湖」とかの怨歌の人とは違うよ!

(2013.05.24)

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